理想の自分の姿を常に追究してきたつもりだが、組織の中では埋没し実現できない場面もあった。
大腸がん手術で当院は、名実ともに日本の最後の砦であり、実際に数多くの奇跡の治癒を目の当たりにしてきた。外科医のキャリアを積めば積むほど、外科医として多くの手術をして、人命を救い、感謝され、実力がついて、実績を上げれば上げるほど、同時に矛盾も感じ始めていた。ヒタヒタと、確実にこの矛盾の影が忍び寄り、僕の心は少しずつ侵食されていった。
勤務医として、この15年間、国内学会や論文として絶え間なく世の中に情報を発信し続けてきた。国内のみならず、演題採択が難関といわれた海外の国際学会でもすべて採択された。バルセロナでは高齢者に対する大腸癌腹腔鏡手術が優秀演題として表彰され、医療系の報道記事で報じられた。ソウルでは大腸憩室に対する招待講演を満場の熱気あふれる会場の中、最年少で登壇し英語で完投。サンディエゴでは外科系最難関の国際学会で結腸膀胱瘻に対する腹腔鏡手術が採択。ミラノで開催された第1回世界ヘルニア学会では鼠経ヘルニアに対する腹腔鏡手術を発表。日本外科学会からの推薦で、大腸憩室の腹腔鏡手術の発表をヒューストンで行った。ほかにもこれまでに数多くの国に行った。
外科系雑誌の手術に関する雑誌編集者からの個人宛の依頼原稿は最近、ますます増えてきている。それは大腸憩室の症例数や論文、学会実績は、日本国内ではもはや僕の右に出るものはいないといっても過言ではないことを意味している。
充実しすぎている外科医としての勤務医人生。このような機会を与えてくれた虎の門病院にとても感謝している。虎の門病院以外で勤務していたら、こんなに満ち足りた毎日は送れなかったと思う。
しかしながら、これを終わりにしなければ、何かがはじまらないような予感は薄々と以前から感じていた。想いは募り、矛盾が胸中に交錯する日々を重ねた。そんな自分に毎夜毎夜、嫌気がしてすさむような心境になる日も多々あった。とくにニューヨークから帰国した1週間は、ほとんど眠れなかった。今からちょうど1年くらい前のことだ。
現在、38歳。
組織の中で、この先も、外科医としては成長できるかもしれない。
外科医としては、だ。
しかし、人間としてはどうだろう。
外科医としてではなく、人間として、この1度しかない大切な人生を、人として成長していくことはできるのだろうか。生きる、生きている、生きていく、ということの本質は何か。そして僕の人生の使命は何か。勤務医は特殊なコミュニティーだ。とくにその中でも外科医はさらに特殊だと思う。世間一般の常識が通用しなかったり、、、これ以上の詳細は、ここでは書かないし、書けない。
ひとりの個として、僕はこのままでいいのか、現状はここまでなのか、こんなもので満足たりえるか、満たされているのか。問いかけを繰り返し、とことん悩みぬいた。
見たことのない、景色を見てみたい。
そこに到達してみたい。
自ら困難を創造し挑戦したい。
登る山は高ければ高いほどいい。
そして出した答えは、
虎の門病院での勤務を終了すること。
病院での外科医のキャリアに文字通り、『メスを置くこと』。
開業決心とは、矛盾を抱えた僕にとって、ある種の『カタルシス』だったのかもしれない、と悩んでいた当時を振り返って今は考えるようになっている。
僕は今、人生においてとてつもなく、大きなものを自らの手で終わらせようと決心し、その日が迫りつつある。哀愁は感じるが、後悔の念は不思議なことにまったく感じない。未練も一切ない。
精いっぱい全力で、手術をして、やり切ったから。
メスを置くことは、全力で悩みぬいた結論だから。
僕は自ら終わりを決めた。
そして、終わりは、同時に始まりを意味する。
この決心は、かけがえのない、大きな夢を実現する推進力になる。
今までの実績を手放す、大きさは計り知れない。
ならば、この力をのすべてを、これからの開業ミッションに注力するまで。
僕の明日は自らの意志で創造する。
自分の感じるがまま、レールを敷くところから始める。
熟れた果実を収穫するところからではなく、畑を耕すところから始める。
真っ白な白地図に好きな夢を自由に描く。
『病ではなく人を診よ』
幼いころに憧れた理想の医師像を体現すべく、これまで培ってきた経験を糧にし、自信を持って一歩ずつ前に進もう。